哲学的に考えてみた【哲学ブログ】

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神は存在しない―無神論について

突然だが、あなたは神を信じているだろうか。

 

宗教の勧誘かとびっくりしてしまったかもしれないが、そんなつもりは毛頭ない。今回は神の存在について哲学的に考えてみる。人類はその長い歴史の中で神(ないしそれに類似するもの)を信仰してきた。そして神が存在しているか否かは、この世界の在り方に関わる1つの重要な問いだ。

 

実際の所、どれだけの人々が神を信じているのだろうか。

 

一例として、博報堂の生活定点アンケートによると、日本において宗教を信じていると答えた人は16.9%と決して多くはない*1

 

ただ宗教団体の信者として活動するなどせず、明確に宗教を信じていなくても、例えば「宗教的な」(超自然的な)事柄を信じてる人は一定数いるようだ。同調査では「霊魂を信じる」と答えた人は30.6%、来世を信じる人は28.2%となっている*2

 

別のデータとして、ピュー・リサーチ・センターによると「神や目に見えない存在を信じている」と答えた人が64%もいるようだ*3

 

日本人は無宗教なのだとよく言われたり、そう自己認識している人も多いが、本人が意識せずとも、死後の世界や霊魂を信じていたり、神社でお参りしたりお守りを買ったりと、実は宗教的(スピリチュアル)な事柄を信じている人は一定数いるようだ。

 

本稿では無神論(つまり神が実在しないということ)がなぜ正しいのかを論証していく。西洋哲学がキリスト教文化圏で発展していった経緯から、主にキリスト教的な創造神としての神についての話にはなるが、ここでの論点は他の宗教や信仰、宗教的な存在にも概ね当てはまる。

 

 

神の定義

神とはどのような存在か。神の定義としてキリスト教的神を想定する。キリスト教的な神は全知全能最善で、必然的で、この世界の全てを創造した存在として定義される。

 

有神論とはそのような神が実在するという立場であり、無神論とはそのような神はこの世界に実在しないという立場だ。

 

本稿では主にキリスト教的神は存在しない事を論証していくが、ここでの論証は他の宗教で想定されるような神(やそれに類似する存在)にも概ね応用可能なものである(特に【1】【2】【6】

 

【1】神が存在する証拠の不在

有神論の最大の問題は神が実在するという証拠が未だに提示されていないことにある。神が実在するという証拠があるならぜひ見せてほしい。長年におよぶ神についての人類の議論に終止符を打ってくれるだろう。

 

基本的に何かが存在すると主張する側にその存在を証明する証拠を提示する義務がある。なぜなら、何かが存在しないという事を証明するのはいわゆる「悪魔の証明」であり、原理的に不可能だからだ。想像してみてほしい 。一体どうやって、絶対にこの世界のどこにも何かが存在しないという事を証明することができるだろうか。ありとあらゆる全ての地球上の場所、何なら全宇宙をくまなく探し回って本当に存在しないことを確認しなければならないというのか。到底無理なことが分かるだろう。

 

もしこの原則に則らなければ、あらゆる荒唐無稽な主張が可能になってしまう。例えば、宇宙のどこかで「オジー・オズボーン万歳」と刻まれた黄金のプレートが漂っているなど、それが存在していないことが示されていない(悪魔の証明という事だが)以上、それらが存在しないとは言えないという荒唐無稽な主張を認めてしまうことになる。

 

勿論、宇宙のどこかで「オジー・オズボーン万歳」と刻まれた黄金のプレートが漂っていることなどがある意味においては「絶対に無い」という事は「証明」できない。

 

しかし存在していないことが「証明」できないからといって、それが存在するという事にも当然ならない。宇宙のどこかで「オジー・オズボーン万歳」と刻まれた黄金のプレートが漂っているというのなら、主張している側がその主張を根拠づける証拠を提示する挙証責任がある。

 

神は我々が普段慣れ親しんでいるものとはまるで違う特異な存在だ。全知全能最善で、この世界の全てを創造した必然的な存在など身近にはいないし、我々が知っているあらゆるものの範疇を超えてくるものだ。それだけの特異な存在がいるというのなら、それ相応の存在する根拠を示さないといけない。挙証責任は有神論側にある。そしてそのような証拠は人類の長い歴史上未だに提示されていない。

 

宇宙のどこかで「オジー・オズボーン万歳」と刻まれた黄金のプレートが漂っていることを信じるに足る合理的な理由がないのでそれを信じないと同じように、神の存在を信じるに足る合理的な理由はないのでその存在を信じないのだ。実在の証拠が無いものの実在を信じる理由がそもそもない。

 

【2】世界の説明における理論的必要性の不在

有神論の問題は存在の証拠の不在だけでない。これは神の実在を信じるに足る根拠が無いので信じないという消極的主張だ。しかし神の存在を信じない積極的な理由もある。

 

神の存在は、世界を解明し理解する自然科学的な世界の探究においてまるでその存在を必要とされない。神の存在を前提としなくても、自然界の現象は全て説明することができる。神の存在を前提としなければ説明できない自然界の現象などないのだ。であれば理論的にも、神の存在を仮定する必要がまるでないという事になる。

 

例えば自然界においては因果関係の閉鎖性というものがある。自然界で発生するあらゆる現象、因果関係は完全に自然界ないし物理世界に存在するものや関係性で説明可能で完結しており、自然界や物理世界以上の何か(例えば神)を持ち出す必要がない。

 

神は超自然的な存在であるとされる。超自然的な存在とは、自然界を超越しながら、自然界に因果的に介入することができるような存在だ。しかし物理世界にそのような物理法則や因果関係を超越した「介入」は一度も確認されたことはなく、またそのような超自然的な存在を持ち出さなくても物理世界は物理世界内の因果関係や法則において完全に説明でき、完結している。

 

神の存在などは世界の説明、解明において理論的に不要で不必要な仮定、余剰な存在なのである。何の説明的役割や貢献も果たさず、理論的に不要な存在である神は、存在を前提とすべきものではなく、オッカムの剃刀、存在論的簡易性の観点から、むしろ積極的にその存在を信じない理由があるという事になる。物事の説明が神なしで成り立ってしまっている以上、神の存在を持ち込む余地がそもそもないのだ。

 

【3】全能のパラドックス

もし神が全能であるのならば、全能であるが故に自らが持ち上げる事も出来ないような重い岩を作り出すことが出来るはずだろう。しかしそのような、自分が持ち上げられないような重い岩を作り出したなら、持ち上げられない岩がある時点で神は全能ではなくなってしまう。しかし自らが重くて持ち上げる事も出来ない岩を作り出すことが出来ないとなれば、逆にこれも神が全能ではない事となってしまう。全能な神などというものはそもそも矛盾しており存在しえないのだ。

 

【4】悪の問題

古典的な有神論批判として悪の問題がある。もし神が全知全能最善な存在として実在するなら、なぜこれほどまでにこの世界に悪が存在するのかの説明がつかない。暴力、詐欺、殺人、拷問、戦争、疫病、災害…挙げればキリがないほどの悪や苦しみがこの世界には存在する。本当に神が全知全能最善であるならば、このようなとてつもない量の悪や苦しみが発生していること、そしてそれを止めないことの説明がつかない。本当に神が全知全能であるならば、これだけの悪が地球にあることを当然知っているし、そしてそれらを止める力を持っているし、なおかつ最善であるので、自らが止められる悪をそのままにはしておけないはずだ。しかしそうはなっていない。なぜか。なぜなら神などそもそも存在しないからだ。これだけの悪が存在することが、神が実在しないことの最大の証左となる。

 

【5】なぜ神が世界を創造する必要があるのか

先述の悪の問題にも関連してくるが、そもそも全知全能最善で完全無欠で必然的である神が、我々が住むこの特有の世界を創造する理由も動機もまるでない。なぜなら神はすでに完全無欠で完結しているからだ。わざわざ我々の世界のような特有な物理法則や内容物をもって、宇宙や地球や人類などを作る必要がまるでない。そもそも全能ならこんな回りくどい世界の作り方などしないだろうし、これほど悪に溢れている世界を作っていることもまるで辻綱が合わない。

 

【6】代替的説明の利用可能性

これまでなぜ神が存在ないのか(或いは存在することを信じるに足る合理的理由がないのか)を説明してきた。では神は存在しないとして、なぜ人はこれまで神に対する信仰を持ってきたのか、宗教などというものがあるのか。しかしこれらについての説明は神の存在を仮定しなくても可能である。人間の神にまつわる様々な信仰や宗教は神なしで説明できてしまう。

 

なぜ人は「神」を信じるようになったのか。なぜ宗教が発生したのか。それについては様々な学問の分野(認知科学、進化心理学、社会学、人類学など)で研究、説明されている。

 

これらの分野について私は明るいわけではないので、とりあえずAIを参考にいくつか例を出すが、例えば人間の脳には「エージェント検出機構」があり、自然が何か意図を持って動いているように見えてしまうらしい。「心の理論」が発達して、他者の意図を推測する機能が自然や実在しない対象に転用され、「神」概念が形成されていった。宗教は人間の脳の「副産物」として自然発生したという訳だ。

 

また、宗教や神への信仰は、集団内の協力を促し、団結・連帯感を強め、社会秩序の維持装置となる。また死後の世界を想定する事は不安軽減の作用を持つ。宗教は集団選択的・個体選択的に適応的であったという訳だ。

 

詳しくはそういった分野の本を読んでご自身で確認してほしい。大事なのは、神という超常的な存在を前提としなくても、人間の神に対する信仰や宗教的営みが科学的、学術的枠組みで整合的に説明できてしまうということだ。信仰や宗教を説明するのにわざわざ神という存在を持ち出す必要がないということだ。

 

中間まとめ:神は実在しない

存在しているという証拠がそもそもなく(【1】)、存在を仮定する必要もないため信じる必要性がなく(【2】【6】)、何なら存在するとしたら説明がつかない事(【3】【4】【5】)がある。理性的に考えれば神は存在しないといえる。

 

繰り返しになるが、「厳密に言えば」基本的に何かが存在しない事はいわゆる「悪魔の証明」となり「証明」できない。しかしそれをもってだから神が存在しないとは言えないと拘泥する人がいたなら、神を信じる事はこの宇宙の何処かで漂っている「オジー・オズボーン万歳」と刻まれた黄金のプレートの存在を信じる事と同じくらい荒唐無稽で根拠がないと返す他ない。

 

我々はオジー・オズボーンの黄金プレートが宇宙に漂っているという信念を信じるに値しない非合理的なものとするように、神への信仰も同じく信じるに値しない非合理的なものであるということだ。気に食わないのなら、神の存在を信じないというのが、合理的で最も正当化された立場であると言い換えてもらってもいい。裏を返せば、神を信じるという事は根拠がなく、非合理的で正当化もできない立場ということだ。

 

想定反論と応答:本当に神の存在を信じるに足る根拠はないのか

これまでいかに有神論に根拠がないかという事を論証してきた。しかし果たして本当に神の存在を信じるにたる根拠は何も無いのだろうか。考えられる反論を2つ取り上げる。

 

【2】に対しての反論として、神の存在を前提としないと説明できない事柄として、世界の起源と道徳が挙げられる事がある。これらが神の存在なくしては説明できないのであれば、それらは神の存在を信じる一応の理由を提供してくれるかもしれない。

 

しかし仮にこれらの主張に一定の理があっても、【1】【3】【4】【5】【6】の問題は依然残ったままである。仮に【2】の主張を弱める事が出来ても、依然有神論を確立するまではまだ遠いという事は留意されるべきである。

 

その上で、【2】に対するこれらの反論もそもそも説得力もあまりない。

 

①世界の起源について

有神論を補強してくれる観点があるとしたら、それはこの世界そのものの起源の問題になるだろう。なぜこの世界は何も存在もしない完全なる「無」もありえたのに、そうではなく「何か」が存在しているのか。この世界はそもそもなぜ可能だったのか、どうやって始まったのか、という世界の究極的な起源の問いについて、我々は未だに有力な答えを持っていない。

 

ビッグバン仮説や、不安定な量子的真空からの量子的揺らぎによる宇宙の誕生など、天文学では様々な理論が提唱されているが、これらもこの世の全ての始まり(完全な無ではなくなぜ「何か」が存在するのか)についての答えをまだ持ち合わせていない。例えばビッグバンが発生する以前は何があったのか、何もない無から急にビッグバンが始まったのか、だとしたらそれはどういう仕組みで可能なのか。量子的真空も確かに「かなり何もない」世界かもしれないが依然として量子的真空という「何か」はあるから、どうやって量子的真空が生まれたのかは説明ができない。

 

もし必然的(存在しないことがあり得ない)で全能の存在である創造神がいれば、この世界は神が創り出したものであり、世界の究極的な起源は神で説明をする事ができると考えられる(とはいえ【3】【4】【5】の問題は引き続き残るが)。世界の全ての起源は最終的に神に求める事ができ、説明や因果の連鎖をそこで止める事ができる。神は全能なので当然世界を創り出す力は持っているとされる。また神の起源に関する疑問(どうやって神が生まれたのか)も、神の存在を永遠で必然的とすれば回避できる。創造神の存在は世界の起源について一応の説明を与えてくれる仮説であるという訳だ。

 

しかし世界の起源については有神論が唯一の仮説であるという訳ではない。例えば、「完全なる無」はそもそも矛盾ないし原理的に不可能であるが故に、世界や存在は必然であらざるをえないという形而上学的主張がある。またこの世界には起源などなくただ永遠に存在し続けているのだという世界永遠説のような考えもあったりする。世界の起源については別の投稿で書いているので興味があればぜひ読んでみてほしい。

rye2025.hatenablog.com

 

創造神以外の仮説の選択肢がある以上、そしてこれまで論じてきた有神論の様々な問題を鑑みるに、創造神説は有効な仮説とは言いづらい。

 

そして仮に、必然的で超自然的な世界を創造するだけの力を有した創造神までは想定することができたとして、全知全能最善のキリスト教的神の存在まではまだ程遠い。そして仮にそのような「一応の創造神」がいるとして、なぜそのような存在について信仰したり敬愛したりする必要があるのかが不明だ。宗教的営みの正当化についても依然飛躍があるのだ。

 

②神が存在しなければ道徳は成り立たないのか

別の反論として、神が存在しなければ善悪なども存在しえず、道徳が成り立たなくなるというものもある。

 

神なき世界にあるのはただ物質だけであり、物体や自然現象だけの「科学的世界観」だけでは善悪や道徳が存在する余地が無く、道徳は説明不可となってしまうという主張だ。そのような世界では究極的には「何でもあり」になり、善悪がそもそもないので暴力や人殺しも別に悪い事ではなくなる。しかし我々は確かに善悪や道徳というものがあると思っている(とされる)。故にそれらを説明し、基礎づけるには神の存在を認める必要がある、といった主張だ。

 

実際に神命説という道徳理論もある。ある行為が道徳的に正しいのは神がそうたらしめた(命じた)からであり、道徳的に悪い行為も同じく神によってそうたらしめられている(命じられたから)とされる。道徳における善悪や正しさは神によって規定されているという道徳理論だ。

 

しかしよくよく考えてみてほしい。別に神が存在せずとも普通に道徳は成り立つだろうと殆どの人は思うのではないだろうか。そして道徳を成立させる為には神が必要であるという主張は現代哲学においての殆ど否定されている。有神論者ですら、この論点は概ね認めてしまっているのが現状だ。

 

道徳における神の必要性の主張に対しては、エウテュプロンのジレンマという古代ギリシャからの古典的な問題がある。

 

神が「誤っていると命じた」からある行為が道徳的に間違っているとするのは道徳を恣意的にしてしまう。神が殺人は道徳的に間違っていると規定したから間違っているのだとして、そこになぜ間違っているのかの根拠や理由がなければ、「誤っている」と規定されていることに(たまたまなのか、神の「思し召し」なのか)特に理由はないことになる。そうであるなら、あらゆる行為や出来事が神の命令次第で道徳的に正しく(或いは誤っていると)されてしまう。もし神がそう命じれば、赤子への拷問も道徳に正しいこととなってしまう。道徳は根拠もなく、神の命令によってのみ偶然に規定された恣意的な基準となってしまう。

 

それに対して、最善たる神は気ままに道徳的正しさを規定しているのではなく、道徳的に正しいものしか正しいと命じないと反論したとしよう。そうすると今度は神の命令とは独立して既に道徳的正しさの基準が存在するということになってしまう(神はただその基準に則って後付けで命じている事になる)。故に神の命令があろうと無かろうと道徳的正しさの基準は独立して別個あるということになり、神の命令の有無に関係なく我々もただその(神も従っている)道徳的基準に則って道徳的判断をすればいいことになる。

 

それに対して、その道徳的基準は神が作り出したもの(神がそうたらしめたからだ)と再反論するなら、また冒頭の、では何をもって神はその基準を定めたのか、基準が無ければ完全な恣意的な気まぐれでしかないのではないかという問題に再度突き当たる。故にジレンマであるという訳だ。

 

エウテュプロンのジレンマはいずれにせよ神の存在は道徳においては不要であるという事を示唆するジレンマである。

 

現にこの世界には多くの世俗的道徳理論がある。アリストテレスの徳倫理にしても、カントの定言命法にしても、ミルの功利主義にしても、スキャンロンの契約主義にしても、全て神の存在無くして道徳を説明する道徳理論である。むしろ哲学は神の存在とは独立してずっと道徳について議論し続けてきているのだ。神の存在なくしては道徳は成り立たないなどという事はない。

 

宗教は倫理的に問題か

ここまでは神が実在するかどうかの存在論的な問いについて考えてきた。そして神が実在するという主張に理はなく、無神論が合理的に最も正当化される事を論証してきた。

 

ここからは存在論的な問いを離れ、無神論がもたらす倫理的な帰結についても述べようと思う。端的に言えば、宗教は倫理的に問題のある営みだ。

 

まず第一に宗教は嘘をついている。宗教家に必ずしも故意や悪気はないかもしれないので(本当に自分の考えが正しいと信じているのかもしれないので)、もう少し穏当に言えば、誤った情報を流布している。神など存在しない。しかしそんな存在しないものについて、あたかも存在していると主張し、あれこれ語り、人にどう生きるべきかを説く。存在しないものを存在すると言い、人の人生に干渉し、様々な誤情報を流布する団体や営みは問題である。

 

第二に、人類の歴史において宗教は様々な害を及ぼしてきた。宗教戦争でどれだけの人が殺されたか。異教徒というだけでどれだけの人が迫害されてきたか。カトリック教会では司祭による性加害が何十年以上と隠蔽されてきた。カルト宗教も様々な犯罪を犯している。あらゆる蛮行が、宗教の名の元、正当化され、為されてきた。これほど害悪な営みはないだろう。

 

無論、宗教が存在することによる利点もあっただろう。社会の安定化や発展に宗教が寄与した面もあるかもしれない。それに多くの伝統宗教は、教義上は、人殺しや噓や窃盗などを禁じる、家族や隣人を大事にしようといった常識的な道徳観念も持っていたりする。

 

ただ問題は、同時に宗教が様々な害悪を成してきたのも事実で、特にそういった悪を成すときの正当化のロジックとして強力に動員される一面があるという事だ(宗教の名の下、人々は様々な酷いことをしてきた)。

 

そして宗教は様々な道徳的に間違っている教義も持っている。例えば、一部のキリスト教やイスラム教では同性愛や同性婚を禁止している。しかし信仰のせいでそのような道徳的誤りが正されることは難しくなり、なんなら道徳的悪を成すための正当化に宗教が使われたりもする(米国での同性愛「治療」キャンプなど)。

 

現代社会においては宗教が人類史的にもたらしてきたメリットは最早なく、その「役割」も終えたと言っていい。世界の事象についての宗教的説明は科学的説明に置き換えられ、人権などに見られる世俗的道徳観は進歩した。今日おいて宗教はその害悪を考えれば最早破棄すべきものである。宗教の教義が一部持っていた道徳的な徳も、別に宗教が無くとも理解できるし実践もできる。

 

第三に、仮に宗教が部分的に道徳的に正しい教義を持っていたとして(そうじゃない宗教や教義も山ほどあるのだが)、それをもって信者が道徳的知識を得たとしても、それが道徳的理解に繋がりづらいことも問題だ。

 

道徳的知識とは、例えば人殺しはいけない、困っている人は助けるべきだ、といった道徳についての知識である。当然これを持っているのと持っていないのでは大違いで、道徳的知識は当然持っていた方がいいし、教えた方がいい。ただ道徳とは、ただ道徳的知識だけを要請するものではない。その先にある道徳的理解も求められる。

 

道徳的理解とは、ただ道徳的知識を知識として持っているだけでなく、何をもってある行為が道徳的に正しい/間違っているとされるのか理解し、さまざまな場面でその知識が応用でき、また他の知識と有機的に接続することができる、といった理解能力だ*4

 

人殺しがいけないのは、聖書にそう書いてあるからとか、神父がそういったから「いけない」のではない。それは「人殺しはいけない」という道徳的知識は持っていても、道徳に対する理解を持っているとは言えない。

 

人殺しがいけないのは、人に危害を加え、他者の自由や権利を侵害し、生きることができた生を奪うからいけないのであって、例えば聖書にそう書いてあるからいけない訳ではない。

 

宗教によって伝達されたる、誤った根拠に基づく道徳的知識だけでは、人生で遭遇する様々な、その知識以上の道徳的判断が求められる状況において正しい道徳的判断を下す事が難しくなってくるだろう。

 

道徳的正しさは、理性的・内省的・学術的に探求されていかれるべきであり、宗教による「妄信」によって伝達されるべきものではない。

 

道徳的理解を育む、その為には「ただ信じる」という宗教的信仰ではなく、自らの頭で批判的に考える事(例えば倫理学)が求められる。道徳教育の観点からしても、宗教は問題である。

 

もしかしたら、上記の論点をもってしても、宗教は困っている人々に精神的安定や「救い」をもたらしてくれるので、そこに依然代替しがたい宗教の価値があると考える人もいるかもしれない。

 

しかしよく考えてみてほしい。仮に困窮している人々がいるのであれば、それは生活保護などの公共的支援によって本来解決すべき事である(例えば、日本の生活保護の捕捉率は異常に低い事が問題だ)。心理的な悩みを抱えているのなら、心の専門家である心理カウンセラーなどによる援助が必要で、それを素人集団の宗教団体に任せる理由はない。

 

生きる意味が見出だせないとか、死が怖いとか、そういった「実存的な」悩みを持つ人がいたとして、果たして宗教の教義などという「嘘」でそれらを解消するのが正しいとはとても思えない。嘘をついてでも、騙してでも、その人の人生を成り立たせる為にはしょうがないというのはかなり極限的な状況であり、繰り返しになるがその場合は心理カウンセラーなどによる専門家による介入がむしろ必要であろう。

 

また宗教が所属意識をもたらしてくれるとも言われたりするが、所属意識が必要であれば、職場なり、習い事なり、趣味の集まりなり、ボランティアなり、いくらでも代替手段が存在する。

 

宗教は偽情報を拡散し、道徳的に問題がある教義を持っている面もあるかもしれないが、それでも公的支援が行き届かない、取りこぼされた人々を「救う」役割を宗教は担っているという反論もあるかもしれない。たしかに寄付文化などはキリスト教やイスラム教の影響があると言えるかもしれない。

 

しかし今日おいて、現実の宗教団体が果たしてそのような「弱者救済」の機能を担っているのかといわれると正直疑問である。むしろ様々なNPOやNGOが弱者支援を行っている現実があるし、そういった団体こそ支援されるべきではないだろうか。そして繰り返しになるが、そういった弱者救済の問題は本来社会的に解決を目指されるべき事柄であり、そこに宗教の役割を見出すのは宗教擁護としては弱い。

 

宗教が倫理的に問題だとすると、それがもたらす帰結は何か。

 

まず宗教団体はその誤情報の流布と拡散によって道徳的非難に値する。

 

とはいえ社会的・政治的には、自由主義の観点から内面の自由は認められるものである。故に宗教は道徳的に問題があるが、宗教団体を即違法とする事は、内面の自由、表現の自由、集会の自由といった基本的人権と衝突するので望ましくはないだろう。例えば個人間の関係において嘘をつく事は道徳的非難に値するが、だからといってありとあらゆる嘘を法的に罰しないのと同じような事だ。宗教団体については継続的な社会的・道徳的批判により、自然に衰退、消滅していくのが現実的な帰結であろう。

 

政教分離の観点からも、現行存在している宗教団体への税制的優遇などの優遇政策は正当化できないだろう。宗教団体であろうと容赦なく他の団体と同様に課税されるべきであろう。特別扱いをする理由や根拠はない。そもそも倫理的に問題がある営みに国家が何か優遇を行う事は正当化できない。

 

税制優遇が無ければ立ち行かなく宗教団体も出てきてしまうかもしれないが、元々倫理的に問題がある営みなのでそれはしょうがない。他の仕事を探してもらうなりする他ないだろう。

 

もし宗教団体へ何かしらの公的支援が正当化されるとしたら、寺社仏閣や宗教的行事が持つ歴史的・文化的価値に基づくものになるだろう。伝統芸能などと同じ位置づけという事だ。伝統宗教が持っている寺社仏閣は歴史的、文化的価値を持っているので、その限りにおいてこれらは保全していくことが社会的にも望ましいだろう。新興宗教はその歴史的・文化的価値が無いため、税制優遇も公的支援も受ける対象ではない事になる。

 

結論

神は存在しない(そして少し応用すれば同様の理由で魂や死後の世界や幽霊といったものについても同じことが言える)。

 

もしあなたが何かしらの宗教に所属していたり、信仰を持っていたのなら、それをやめよう。それらは嘘なので。教会にも神社にもお寺にも行く必要はない。自分の人生を生きよう。

 

宗教を信じていなくても、心のどこかで何かしらの「神」や霊的なものを信じていた人もいたかもしれない。そういった人がいたのなら、まず神へのお祈りやお参りはやめよう。あなたの祈りを聞いてくれる神や仏などはそもそもいない。それは虚無に向かって放たれる思いや言葉でしかない。自分の運命は自分で切り開くしかないのだ。頑張ろう。



*1:

「宗教を信じる」:16.9%|博報堂生活総研「生活定点1992-2024」調査

例えば仏教といったいわゆる「神」を信じないタイプの宗教もあるだろう。しかしそこでも「神」とは呼ばずとも仏や菩薩などの超常的な存在を信じている限りにおいて、ここでの議論では「神」と同じ括りとする

*2:

「霊魂を信じる」:30.6%|博報堂生活総研「生活定点1992-2024」調査

「来世を信じる」:28.2%|博報堂生活総研「生活定点1992-2024」調査

*3:

東アジア社会における宗教と精神性 | Pew Research Center

*4:道徳的理解については、HillsとSilwaの議論が分かりやすい。

Hills, Alison (2009). Moral testimony and moral epistemology. Ethics 120 (1):94-127.

Sliwa, Paulina (2017). Moral Understanding as Knowing Right from Wrong. Ethics 127 (3):521-552.