哲学的に考えてみた【哲学ブログ】

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アファーマティブ・アクションは正当化され得るのか

導入

大学の試験や大学教員の採用での「女性枠」を揶揄する投稿を最近X上で見かける。「女性枠」とは受入れ枠のいくつかを女性しか埋められないようにする制度だ。組織の女性比率を上げる取り組みの一環として行われる。このような優遇制度を政治の世界ではアファーマティブ・アクションと呼ぶ。多様性の確保のためや格差是正のために社会的弱者を優先的に受け入れる施策を意味する。

 

アファーマティブ・アクションを批判する人々はなぜ批判をするのだろうか。性別が本来関係ないはずの領域において、性別に基づいて違う扱いをすることは「逆差別」であり、そのような「性差別」は到底許されないという考えが根底にあるように思われる。アファーマティブ・アクションは不公平であり、男性が不当に不利益を被っていることを問題視する声もある。あるいは能力主義の観点から、性別関係なく純粋に能力を評価されるべきで、より能力の高い候補者がいるのに、「能力が低い」候補者を「女性であるから」という理由で採用するのは合理的でないといった批判も見られる。

 

アファーマティブ・アクションは原理的に正当化することができないというという反アファーマティブ・アクション原理主義の立場を以降AAAと呼ぶ(Anti-Affirmative Action)。

 

本稿ではアファーマティブ・アクションは倫理的に正当化され得ることを主張していく。道徳的に見て、アファーマティブ・アクションは絶対に否定されければならないものではないと考える。ただあくまで道徳的な観点からアファーマティブ・アクションは正当化されうるという主張なので、必ずしも個別具体的な各アファーマティブ・アクションについてそれが即正しいことを保証するものではない。

 

実際書いてみると想定より長くなってしまった。それだけアファーマティブ・アクションの擁護は複数の前提の合意が必要で複雑なものなのかもしれない。

 

主張はこうだ。端的に言えば、男女格差是正という社会正義達成のためにアファーマティブ・アクションは十分正当化され得ると考える。もう少し詳細に言うと、アファーマティブ・アクションが正当化されるのは、政治における多元主義の前提の元、教育機会といった財の実質的平等の達成が形式的平等とのトレードオフにおいて優先しうるためで、またそれに対して原理主義的、排他的な形式的平等の固執に十分な根拠がないと考えるからである。何を言っているのかよく分からない感じだと思うが、読み進めて頂けたらどういうことが言いたいのか分かるはずだ(と思いたい)。

 

多元主義と平等主義という2つの前提

まずはアファーマティブ・アクションを擁護するために2つの前提となる立場を展開する。多元主義と平等主義である。この前提となる立場は比較的受け入れやすく、現に広く受け入れられているものと考える。

 

最初の前提は、政治について考える上で考慮すべき重要な価値は複数あるという、政治哲学における多元主義という立場だ。社会において自由は大事だが、それ以外にも平等だったり、安全だったり、尊厳だったり、功利だったり、秩序だったり、様々に考慮すべき価値があり、そして往々にしてどの価値が一番大事なのか一元的には決められないので、それらの様々な、時には対立する価値が存在する中で、うまくバランスをとっていくのが政治だと考える。多元主義を擁護した有名な政治哲学者としてはアイザイア・バーリンがいる。

 

恐らく多くの人は政治や社会を考えていく上で多元主義的な考えを持っているのではないだろうか。自由さえあればいいとか、安全さえあればいいといった一元主義的な考え方はかなり極端であり、少数派であろう。なので殊更多元主義の妥当性をここで主張はしない。多元主義は概ね賛同されているものとし、寧ろ一元主義的な考えの方が極端であり、それを主張したいのならそちらの方に挙証責任があると考える。

 

多元主義は概ね正しいとしよう。多元主義のポイントは、考慮すべき政治的な価値が複数あること、そして場合によっては競合しうるそれらの価値のバランスをとっていかなければいけないということだ。その上でこの後の議論でポイントになってくるのが平等の価値をどう考えるかだ。我々が政治で考慮すべき様々な価値の中の1つに平等があるように思える。自由は大事だが、平等もまた大事なのだ。

 

例えば一見すると平等と関係ないように思える政治哲学の理論、リバタリアニズムにしても功利主義にしても、前者で言えば個人の自由は人間であれば誰にでも分け隔てなく「平等」に付与されるものとして規定されてるし(もし特定の人種や性別「だけ」自由が保障されていなかったら、そのような「不平等」な状況にリバタリアンは憤るだろう)、後者で言えば功利計算には人間誰でも漏れなく「平等」に含まれる(貴族や王族や有名人だからより功利が優先的に考慮されるなんて「不平等」があったら功利主義者は見逃さないだろうし、動物倫理の文脈で言えば動物の功利を考慮しないのは「不平等」であるとされる)。そして言わずもがなだが社会主義はもちろん平等を重視する。

 

何かしらの形で「平等」を考慮する事は、少なくとも検討に値する主要な政治哲学的な立場は必ず持っている要素であり、その意味で平等はなにかしらの形で価値があるものだと現に想定されており、平等の価値について真剣に考える事は避けられないのである。これは先程の多元主義とも整合する。

 

そしてそれを基礎づけるのは、人は道徳的に平等な配慮に値するという人間の道徳的地位の平等性であろう。この点についてもほとんどの人が賛同することと思う。

 

「平等」について一切考える必要がないとするのは、一元主義と同様にかなり極端であり、少数派であろう(平等とは縁遠いとされるあのリバタリアニズムですら自由の分配において平等を前提とする)。そもそも現にAAAが「平等」を理由にアファーマティブ・アクションに反対しているように思われる(アファーマティブ・アクションは男性に対して「不平等」であるなど)。なのでやはり平等自体は考慮すべきファクターなのだ。政治や社会を考える上で「平等」の価値が全く必要ないという考えを主張したいのなら、そちらの方に挙証責任があると考える。

 

多元主義と、何かしらの形で政治において平等は大事であるという平等主義も概ね同意が得られるものと思う。

 

次に大事なってくるのが、「何についての平等」(Equality of What?)であるのかということだ。例えばリバタリアニズムは個人の自由や権利について各個人に平等に付与する。

 

AAAに関して言えば、形式的平等を達成しようとしてると言える。形式的平等とは、ある役職に応募したり、試験を受けたりする時に、性別や人種を理由に違う扱いを受けないということを意味する。誰であろうと平等に分け隔てなく参入できる状態であり、例えば女性だから参入できないといったような法的、制度的な障害がないことを指す。そういった形式的な障害は取り払われているという意味で、消極的な機会の平等とでも呼べる。制度的、法的、つまり形式的な障害の不在を平等化しているとも言える。そして確かに形式的平等はとても大事だ。

 

では何を平等化するのか議論において、「財」についてはどうだろうか。「財」とはお金であったり、教育であったり、福祉であったりと、人生を豊かに生きるために必要な社会的に生産される幅広い「資源」と考えてもらっていい*1。今回の議論でいえば、「教育を受けること」も財の一つに数えられる。

 

人生を生きていく上には財はとても重要だ。衣食住という財が無ければ生きていくこともままならないし、お金という財が無い貧困状態でもそうだ。教育という財があることによって選択肢が広がるし、文化資本という財は精神生活を豊かにする。

 

財は大事だ。そして状況によっては我々は容易に形式的平等の確保よりも先ほど挙げたような実質的財の確保を優先する。

 

例えば貴方の目の前に2つの選択肢がある。一方は形式的平等が完全に達成されているが、貴方は食べ物も飲み物もろくにない一文無しで、つまり財を持っていなく、数日のうちに餓死で死んでしまう。他方は一部の形式的不平等が残る、例えば貴方には選挙権や被選挙権がなかったり、移動の自由がない。しかしそのかわりに生きていくために必要な財、お金や食料や飲料などは十分にある。貴方はどちらの選択肢を選ぶだろうか。

 

殆どの人は後者を選ぶだろう(もしかしたら一部にはそれでも前者を選ぶ誇り高き者もいるかもしれないが)。なぜか?単純な話で背に腹は代えられないからだ。いくら形式的平等が実現されていても餓死しては元も子もないし、その状況でピカピカの形式的平等だけがあっても空虚なだけだ。仮に形式的不平等があろうと何よりもまずは自分の人生を成り立たせるための基本的な財が必要なのだということだ。

 

そういった意味では財は形式的平等に対して優先されうる。むしろいくら形式的平等があろうとも一定の財が手元ににある(分配されている)前提でないとそもそも意味がないとも言えるかもしれない。形式的平等が意味を持つのは、一定の財の分配が達成されているからこそなのだ。

 

形式的平等以上に財が大事な時もあると分かったと思う。では今度はそれだけ大事なその財をどのように分配するのかを考えなければならない。

 

先述の平等についての重要性を確認した通り、人は平等な道徳的配慮に値する。自由や個人の権利は平等に付与されるし、功利計算においても平等に1人1カウントとして含まれる。そうであるならば、自由や権利や功利配慮と同じくらいに、或いはそれ以上に大事である実質的財があるならば、平等主義の立場に立てば実質的財も平等に分配されるべきでものであるといえるのではないであろうか。

 

消極的な自由を平等に与えることについては(その達成には歴史的にとても長い時間がかかったが)、基本的には障害を取り払うといった制度設計の問題なので、つまりコストが大きくないので、現代においての我々は容易に認める。しかし財の再分配といった生産された財を分配する話になると途端に抑制的になる。

 

しかしどちらも個人の人生を左右する意味ではとても重大であり、実質的財については尚更そうと言える。様々な自由が制限されれば幸福な生からは遠ざかるし、必要な財(健康で文化的な最低限度の生活)が無ければそれも同じだ。そして自分の人生がうまくいくかどうかで大事なのは実際にどれだけの財が手元にあるかだ。財の分配が不平等で手元に十分な財がない状態で形式的平等だけが堅持されていたとしても虚しい。それがあったところであなたの人生は別にうまくいかない。しかし一定の財の分配があれば、うまくいく可能性はぐっと上がる。

 

倫理学には消極的義務と積極的義務という概念がある。

 

消極的義務とは非干渉の義務であり、特定の行動を取らない義務だ。例えば人を殴らない、人の物を盗まない、人を殺さない、その人間の自由を侵害せず尊重する、といった形で、ある人間の自由が認められている範囲には侵入していかないことが求められる。何かの行為を「しない」義務なので消極的義務というわけだ。

 

世の中には消極的義務しか認めない筋金入りの人々が一部いる。道徳が要請するのはお互いの自由を尊重しあうことだけであり、それ以上の事をするのは、仮に道徳的賞賛に値するとしても、義務として求められるものではなく、あくまで道徳的な余剰であると。

 

しかし多くの人は積極的義務の存在も認めている。例えばあなたの目の前に湖で溺れている子どもがいて、周りにいるのはあなただけで、あなただけが助けることができる状況で、あなたは子どもを助けるべきだと思うか(カナヅチの読者がいたらあなたは泳げるという設定で考えてほしい)。殆どの人は子ども助けるべきだと考えるし、助けないことは道徳的に間違っていると考えるだろう。

 

この場合の子どもを助けなければいけないというような義務を積極的義務と言う。消極的義務と違い、積極的義務は何もしないという非干渉ではなく何かの行為を行わなければならない義務で、行為者が何か積極的に「コスト」をかけることを要請する。例えば溺れている子どもを助ける為に湖に飛び込む「労力」であったり、貧しくて困っている人に「お金」を寄付したりする慈善のことだ。

 

実際に我々の社会でも多数の積極的義務が認められている。

 

例えば親が子どもに教育を受けさせる義務も、市民が文化的で必要最低限の生活が保障されていることも、富裕層からの累進課税による富の再分配をしていることも、全て積極的義務の現れなのだ。

 

貴方が筋金入りのリバタリアンで積極的義務を全否定しない限り(そしてそれは目の前で溺れている子どもを助けるべきであることを否定することににも繋がりかねない)、殆どの人間は困っている人を助けなければならないという積極義務を何かしらの形で認めている。積極的義務を否定することは、ひいては公教育や生活保障や公共インフラの整備も否定する事に繋がる。

 

道徳は時に我々にコストを払ってでも問題ある状況への積極的介入を求め得る。

 

積極的義務が存在し正当化できるならば、生産された実質的財を平等に分配するような積極的な施策も正当化できる理路が開ける。

 

繰り返しになるが先述の通り、実質的財があることはとても大事で我々は現に高い価値を置いている(時にそれは個人の自由や形式的平等よりも優先される)。そして平等主義に則り、個人の自由や権利や障害の撤廃などは「消極的」なので平等化するのに、財の分配については「積極的」なので平等化しないというのは一貫性がないように思える。どうして個人の自由や権利が不平等に付与されていたら問題視するのに、財に関してはしないのだろうか。

 

これ以上議論を進めると「分配の正義」の議論に入っていき、アファーマティブ・アクションという本題から逸れていくので、一旦ここで切りをつける。既に多元主義や平等主義といったかなり大上段から議論を始めてしまっているのもある(AAAと共有できそうな前提から始めようとしているためだ)。具体的にどのように財を再分配すべきかは、様々な理論がある(ロールズの格差原理や優先主義、十分主義、運の平等主義、目的論的平等主義、左派リバタリアニズム社会主義など)。

 

ここまでの議論で確認したかったのは、多元主義による価値のトレードオフがあり得るということ、交渉される重要な価値の一つとして平等があるということ、そして財の分配は重要で時に形式的平等に優先し、尚且つ平等主義的な分配が必要な可能性があるということだ。

 

形式的平等と実質的平等の対立

続いて、実質的財の分配の平等が達成されている実質的平等と、人種や性別といったアイデンティティによる障害の撤廃が平等化されている形式的平等という2つの平等の価値の対立がある時に、前者が優先しうることを示唆する事例を考えていく。恐らくここがAAAとの意見の相違が最も明確になる争点だ。

 

ここまでの議論を追っていて、AAAは平等主義や財の重要性、財の平等的分配の可能性も一定認めるかもしれない。ただ彼らが頑ななのが、そうだとしてもそれらの考慮は形式的平等を絶対に毀損してはいけないという、形式的平等についての原理主義だ。なのでそれを揺さぶる為に、実質的平等が形式的平等に優先し得る事例を考慮し、更にそれとは独立してAAAの形式的平等原理主義は正当化が難しいのではないかという反証を展開していく。

 

源氏派と平家派で2分化されている社会を考えてみてほしい。源氏派と平家派の人数は同じくらいで、人は必ずどちらかの派閥に所属して生まれてくる。そして源平合戦で源氏派が勝っている。貴方はこれからこの源平社会に参加していくのだが、その中でも2つのパターンから選べる。

 

社会Aは源氏派が社会における主要な権力や地位のある役職を占有している社会だ。研究者であったり大学教授、政治家であったり、社長であったり、管理職であったり、或いはシェフや音楽家や建築家や映画監督といったクリエイティブ職も、源氏派の9割以上のこれらのポジションを占めている。平家派が占めているのは1割にも満たない。社会Aでこれらの主要な権力や地位のある役職に就ける実質的な可能性は、源氏であれば平家の10倍以上に上がり、平家であれば源氏の10分の1以下になるとしよう。

 

社会Bは源氏派と平家派で主要な役職に就いている割合はおおよそ半々であり、それらの職に就ける確率も源氏と平家で変わらないとしよう。

 

貴方はどちらの社会を選ぶか。尚この判断はロールズの『正義論』で展開される「無知のヴェール」の向こう側から判断されなければならない。無知のヴェールの向こう側から判断するということは、今選択をしようとしている社会において自分がどういう人間であるかが全く分からない状態で選ぶということだ。無知のヴェールを取ったらあなたは源氏かもしれないし平家かもしれない。貴方が源平のどちらである可能性は50%づつであるとしよう。またヴェールを脱いだ貴方は研究者や政治家や企業家になりたいという確固たる目標を持っているかもしれないし、そういった仕事に大して興味がないかもしれない。

 

多くの人は社会Bを選ぶだろう。社会Aでは自分が無知のヴェールを取ったとき平家派であった時のリスクが大きすぎるからだ。一度きりのかげないのない人生の選択において、人はなるべくリスクが少ない社会を選択する。合理的に、或いは利己的に考えても社会Bが選択される事となる。自分がどういう人間であるかが分からない以上、可能性は最大化し、不利益は最小化するのが合理的判断だ。

 

ではこの源平社会AとBについて、それぞれもう一つづつ情報を追加しよう。

 

社会A*では形式的平等が完全に達成されている。つまり平家であろうと、主要な役職に就くことに関して法的、制度的な障害は取り払われている。平家だからという理由でそういった仕事に就けないということはないということだ。しかし依然として主要な権力や地位のある役職に就ける実質的な可能性は、源氏であれば平家の10倍以上に上がり、平家であれば源氏の10分の1以下である。

 

社会B*では形式的平等が完全には達成されていない。部分的な形式的不平等がある。なぜならアファーマティブ・アクションによって、平家優遇施策が取られているからだ。無論、源氏が排除されている訳では無い。源氏も引き続き主要な役職には就けるし、実際に就いている。デフォルトとしてあるのは形式的平等の理念だ。ただアファーマティブ・アクションの導入によって、源氏であろうと平家であろうと主要な役職に就ける実質的な可能性を平等化しているのだ。

 

これらの情報が追加されても、無知のヴェールを被っている状態では、引き続き人は社会B*を選択するだろう。社会A*において形式的平等が達成されていようと、実質的に就ける可能性に大きな開きがあるならその社会を選ぶことはリスクでしかないし、そんな社会で形式的平等だけ堅持されていても虚しいだけだ。社会B*は仮に形式的平等が完全に達成されていなくとも、その理由は平家側がそれらの役職に就ける実質的可能性を引き上げる為に限定的に導入されているアファーマティブ・アクションのためであり、無知のヴェールを取った際のリスクでいえば、源氏だろうと平家だろうと等しくチャンスがある社会B*を選択するのが合理的だ。

 

この思考実験から得られる示唆は、就業という財の実質的平等もまた大事であり、時には合理的に見て形式的平等に対して優先もされうるということだ。

 

この状況において、AAAは社会A*を選択するのだろうか。貴方が、社会A*のような実質的な不平等があろうとも形式的平等が担保されていることが唯一肝心であって、結果的に(歴史的経緯や社会構造に起因する)実質的不平等が放置されていたとしてもそれはしょうがないとし、本当に前者の社会を選ぶなら、それは形式的平等に対するかなり原理主義的な立場と言える。

 

ではAAAが形式的平等をここまで原理主義的に固執するのに正当な理由はあるのか。次は一転、AAAの立場について批判的に検討する。

 

何が問題とされているのか:AAAの主張

AAAはアファーマティブ・アクションの一体何を問題としているのか。恐らく下記のような論証に立脚していると思われる。

 

P1:性別によって異なる扱いをすることは差別行為であり倫理的に問題がある

P2:女性優遇政策は性別によって異なる扱いをする

C1:故に女性優遇政策は差別行為で倫理的に問題がある

 

P2は経験的命題で事実だ。確かにアファーマティブ・アクションを取り入れれば、女性が女性であるという理由で何かしらの形で「優位」になり、男性は特にアドバンテージを受けない。枠数が決まってしまっているようなゼロサム的な状況なら尚更、男性枠の上限が強制的に設けられる事となり、結果的に不利益を被る男性が出てくるかもしれない。男性と女性について、形式的に平等な扱いをしていないということになる。

 

P1は道徳的命題だ。一見してそのまま受け取れば正しいように思える。人類の歴史においてありとあらゆる差別が横行しており、それは今日でも続いており暗い影を落としている。我々はその過ちを繰り返すべきではないということだろう。形式的不平等は差別ということだ。

 

であればやはりアファーマティブ・アクションは倫理的に間違っているのか。

 

私はP1に疑義を呈する。なぜなら一見原理的に倫理的に禁止されているような行為でも、背景や状況によっては正当化されうるからだ。

 

例えば他人の腹にナイフを突き刺す行為を考えてほしい。当然これは加害行為であり、倫理的に問題があると言える。ところが医者が手術のために患者のお腹にナイフを刺していたらどうだろう。途端にこれは医療行為となり、患者の治療のためならこれは加害ではなく人助けをするという倫理的に正しく、推奨、賞賛される行為となる。

 

ひとえに倫理的に問題があると思える行為を取り上げても、背景や詳細はその行為の倫理的評価において大きく影響しうる。

 

もしかしたらこのケースは患者の治療を受けたいという同意に基づいているから、アファーマティブ・アクションと違うと考えたい人もいるかもしれない。「私はアファーマティブ・アクションには同意していない」から医者の治療の事例と同じようには正当化できないという反論だ。

 

しかし治療は必ずしも同意を前提としない。事故で意識不明の重体となり、同意をする状態にない患者がいたとして、医者は同意の有無に関わらず治療するだろう。なので同意取得自体がこのケースで決定的な要素ではないと考える。そして次に考慮する事例は更に同意取得を前提としないパターンとなる。

 

徴税の例を考えてみよう。

 

様々な不平不満があるかもしれないが、我々は基本的に原理として徴税は正当化されると考えている(個別具体的な税制についての評価は一旦置いておく)。しかしよくよく考えてみると徴税は本当に正当化できるのか。リバタリアニズムアナキズムの議論でよく参照されるような次の論証を検討してみてほしい。

 

P3:人の財産を奪うことは倫理的に間違っている

P4:徴税は人の財産を奪う

C2:故に徴税は倫理的に間違っている

 

貴方がリバタリアンアナキストならこの論証が健全であると考えるであろう(健全だと思うからそういう立場になったという方が正しいかもしれないが)。しかし貴方が一般的な市民であるならば、この結論には賛同しかねるだろう。徴税は倫理的に正当化されうると思っているからだ。

 

では上記の論証のどこが間違っているのだろう?論理的には妥当なので前提のどちらかが間違っていなければいけない。

 

P3は道徳的命題で正しいと思える。基本的な財産権/所有権の観点から言えば、窃盗は権利侵害である(もし貴方が本格的な共産主義者私的財産を認めないならこの限りではないが、それはまた別の議論になるので一旦置いておく)。

 

P4に対して貴方は反論したいかもしれない。曰く、徴税は窃盗ではないと。

 

確かに常識感覚に則ればそうだろう。しかしそれは徴税は道徳的に正当化された制度だという先入観によるものではないだろうか。哲学はあらゆる先入観をゼロベースで検討する。徴税の倫理的評価を検討するための論証なのに、徴税は倫理的に正しいという先入観に固執してはいけない。

 

先入観を取払い、ゼロベースで徴税という事象を考えてみると、確かに徴税とは国家が個人の財産を、本人の同意無しに、権力(暴力)を盾に強制的に徴収する行為である。これはどう取り繕うと財産権の侵害であり、窃盗以外の何物でもないだろうとリバタリアンは喝破する。

 

ではなぜ多くの人は依然としてリバタリアニズムには転向せず(そもそもリバタリアニズムを知らないという場合が殆どだと思うが)、国家による財産権の侵害であり窃盗行為である徴税が正当化されると考えるのか。

 

それは徴税が社会正義の達成の為に正当化されうると考えるからではないだろうか。この場合の社会正義とは、公共インフラの整備と維持といった公共の福祉であったり、富の再分配による格差是正である。

 

つまりP3は一見原理的には正しいように見えて、実は必ずしもそうではなく、例外もあり得るということだ。

 

先程の医療行為の例も踏まえて、下記の仮説を導き出す。

 

T1:一般的に倫理的に問題があるとされる行為であっても、然るべき主体が、然るべき目的の為に、然るべき手段を取る場合は正当化される場合もある。

 

先程の医師の例を思い出してほしい。同じロジックであることが分かる。一般的に倫理的に問題があるとされる行為(ナイフを刺す)であっても、然るべき主体(医師)が、然るべき目的(治療)の為に然るべき手段(手術)を取ることは正当化されるということだ。

 

あるいは徴税の例も同様だ。一般的に倫理的に問題があるとされる行為(財産を奪う)であっても、然るべき主体(国家)が、然るべき目的(社会正義)の為に然るべき手段(徴税)を取ることは正当化されるということだ。

 

T1が正しいとすれば、P1についても、確かに性別によって待遇を変えることは一般的には倫理的に問題だが、然るべき主体(大学)が、然るべき目的(社会正義)の為に然るべき手段(アファーマティブ・アクション)を取ることは正当化されうるということだ。

 

ここから何が分かるか。ある一般的に倫理的に問題があるとされる行為でも、背景や詳細はその行為の倫理的評価において大きく影響しうるという事例を持ち出し、P1にもその可能性があるのではないかという疑念を持ち出している。言い換えると、一見して原理的に正しいと思えるような道徳的命題も、その見かけが必ずしもその正しさを保証しないということだ。

 

医療行為や徴税の例と違い、あくまで例外なくP1は絶対的に正しいという主張もありうる。しかしP1がそのような例外なく絶対的に正しいといえる強い根拠は果たしてあるのだろうか。あるという(前提にのって)主張している以上、挙証責任はAAA側にある。

 

続いてP1への疑念を更に高める材料として、道徳的絶対主義の問題点を挙げる。

 

例えば嘘をつくことは倫理的に悪いことだと一般的に考えられている。これは有名な例だが、道徳的絶対主義の問題を考える上でカントの倫理学を取り上げよう。教科書的な理解としてカントは道徳的絶対主義を掲げているとされている。道徳的絶対主義とは、倫理的に間違っている行為は何がなんでも絶対にやってはいけないとする立場だ。例えば何があろうと絶対に人を殺してはいけないとか、絶対に嘘をついてはいけない、といった具合だ。

 

カントの倫理学に従えば、嘘は倫理的に悪いことで、倫理的に悪いことは絶対にやってはいけないので、嘘は絶対についてはいけない行為とされる。

 

例えばあなたの家の前にチェンソーを持った殺人鬼がやってきて、あなたの隣人Cさんはどこにいるか、Cさんを殺しに来たと言われたとき、あなたは正直にCさんは今自分の部屋でお茶を飲んでいると居場所を伝えるべきだろうか。居場所を伝えたら殺人鬼は確実にCさんを殺しに行くようだ。恐らく多くの人はCさんの居場所は知らないと嘘を付くべきだと考えるだろうし、それが倫理的に正しい行為とされるだろう(そして殺人鬼が帰ったらすぐさま警察に通報するだろう)。しかしカントのように道徳的絶対主義に則れば、嘘をつくべきではないとなり、正直にCさんの居場所を殺人鬼に伝えるべきであるとなり、結果Cさんは殺されてしまう。道徳的絶対主義は正しいとは思えない。

 

もしかしたらあなたは生死に関わるような重大な問題については例外も認められると考えるかもしれない。無論そのような例外を認めた時点で道徳的絶対主義は放棄してしまっていることになるが、そのような生死に関わるような問題、例えば人を絶対に殺してはいけない、という主張についても道徳的絶対主義は正しくないように思える。

 

例えば強力な新型のウイルスが生まれ、猛烈な勢いで人間の命を奪っていたとしよう。このままいくと人類は滅亡してしまう。ところがある人物Dさんは特殊な体質で、唯一ウイルスに対抗できる抗体を持っている。Dさんに協力を仰ぎDさんの持つ抗体をもとにワクチンを開発し人類滅亡を阻止したいとしよう。しかしDさんは何が何でもワクチン開発には協力しないという(もしかしたら人類は滅んだほうがいいという破滅願望を持っているのか、自分さえ助かればいいと思っているのか)。ありとあらゆる説得の手段を尽くしてもDさんの気が変わり協力することはなかった。最終的にもうDさんを殺して抗体を手に入れるしかワクチンを作る方法はないとしよう。Dさんを殺して抗体を手に入れワクチンを作ることは倫理的に正当化されうるか。恐らく殆どの人は好ましくはないが許容されると思うだろう。残酷な話かもしれないが、ありとあらゆる手段を尽くしても人類83億人の命と1人の命どちらかしか救えないとなった時、1人を殺してでも83億人の命を救う方を選ぶべきであるように思える。

 

つまり生死に関わるような問題でも道徳的絶対主義は正しいとはいえず、例外は存在することになる。

 

P1に戻ろう。果たして本当に、P1は絶対的に正しくあらゆる例外なく守られるべきだという原理主義が正しいのだろうか。リバタリアンの徴税に対する反証に戻るが、例えばリバタリアンは所有権は絶対的で不可侵な権利であると考えているからそれを侵害する徴税に反対する。そういう原理主義的立場も当然ありうる。

 

しかしこれまで見てきたように道徳的絶対主義は正しいとは思えない(たとえ生死に関わる問題でも)。それでもなおAAAがP1が絶対的に真であると信じられる根拠はあるのだろうか。むしろ医療行為や徴税の例同様、例外もあり得ると考える方が妥当ではないか。そしてその時の例外規定を導き出すのに、T1が使えるように思える。つまり確かに性別によって待遇を変えることは一般的には倫理的に問題だが、然るべき主体(大学)が、然るべき目的(社会正義)の為に然るべき手段(アファーマティブ・アクション)を取ることは正当化されうるということだ。

 

なぜAAAは形式的平等を堅持するのか

財の実質的平等は大事だし、形式的平等を絶対視するのは根拠がないように思える。ではなぜAAAは形式的平等に固執しようとするのか。もしそれが単なる女性差別からくるもので、女性の活躍が推進されるものが気に食わないからアファーマティブ・アクションを否定するという女性蔑視に基づくのならば論外だ。

 

もう少し良識的な考えとしては、形式的不平等による様々な差別の歴史の反省から生まれた動機もあるのかもしれない。人類は散々、様々な形で差別を行い形式的不平等を維持してきた。特定の人種だから仕事に就けない、奴隷にする、虐殺する、それこそ女性だから選挙権や教育を受ける権利がないなど、枚挙にいとまがない。これらの歴史を繰り返さないためにも、形式的平等はなんとしてでも尊重されなければならず、それを毀損する制度、例えそれが名目上社会正義を達成するためだとされるアファーマティブアクションであっても、性別による形式的不平等を作っている時点で同じ差別行為であるという考えだ。

 

確かに差別の歴史から学び、同じ過ちを繰り返さない事はとても大事だし、誰もが合意する事だろう。しかし外科手術や徴税の例、或いは殺人鬼やウイルスの事例が示唆するように、原理主義的に、絶対的に形式的平等を堅持することも妥当でないように思える。ここで大事になるのが、今までの醜悪な差別とアファーマティブ・アクションには有意義な違いがあるということだ。

 

まずアファーマティブ・アクションは限定的である。例えばアファーマティブ・アクションは、幅広くある職業に就くことや学部に入学することから男性を排除している訳では無い。男性も引き続きアクセスはあるのだ*2これは一律にあるアイデンティティを排除してきた歴史的な形式的不平等とは大きく違う。アファーマティブ・アクションは部分的に、局所的に女性優遇を取り入れているだけなのだ。これはかつての差別の全面的排除とは構造が違う。

 

次に、男女平等達成/男女格差是正という社会正義の為に行われているということだ(具合的には教育を受けるという財の実質的平等の達成)。この目標に賛同しない者などいるのだろうか。男女は不平等でいい、格差があっていいと考えるのだろうか。そのような考えも女性差別でしかないので論外である。

 

形式的不平等の最たる例であるナチズムにしても奴隷制度にしても、それらは社会正義ではなく悪であった。無論、当時の人々はそれらを「正義」として信じていたのかもしれないが、それは過ちだった。実際にはこれらは不正義だったのだ。そして現に当時でも批判されていた(ナチスの危険性に気づいて亡命した人々はたくさんいたし、連合国は当然ナチスに反対していた。奴隷制度をすでに撤廃していたイギリスやフランスはアメリカの奴隷制を非難したし、何ならアメリカ内戦も奴隷廃止をしていた北軍奴隷制度維持していた南軍に勝利した)。

 

T1が正しいとして、当然そこで目指される正義が本当に正義なのかは真剣に批判的に検討されるべきで、そこであらゆる前提に懐疑を向け、批判的に検討する倫理学が必要になってくる。そういった慎重さや謙虚さは必要だ。しかしそのようなプロセスを経た上でも、依然として男女平等の達成、男女格差是正は正義であろう。ナチズムや黒人差別はこれらのプロセスにそもそも耐えられない粗悪な思想だった。

 

3つ目に歴史的不正義の是正がある。アファーマティブ・アクションとは、長年の男性中心社会による女性差別という歴史的な不正義を是正しようとする試みだ。そして弱者の地位を引き上げる取り組みだ。これも強者が弱者を排除してきた歴史的な形式的不平等で見られる実態とは違う。むしろ逆である。

 

以上の点から、歴史的な形式的不平等とアファーマティブ・アクションは有意義な違いがあり、その区別をつけずに一律に差別であるとするのはあまりにも雑な同一視であると考える。

 

結論

ここまでの議論を追ってきたなら、成程確かに理論的に見ればアファーマティブ・アクションを原理的に一律に否定する事は難しく、倫理的に見て正当化され得る状況もあるかもしれないという思いに至っているはずだ(と信じたい)。

 

しかしそれをもってしても最後の意見の相違があり得ると思う。それは実社会における男女格差の現状認識の相違だ。

 

先程の思考実験では源平で、ある職業に就ける確率が10倍以上違った(確かに分かりやすくするために極端なケースを選んだということもある。読んでいれば分かったと思うが、源平とは要は男女のメタファーだ)。しかし現実の社会ではそんなことはなく、男女格差はそれほどは開いていない。故に理論的にアファーマティブ・アクションが正当化される状況があったとしても、現実社会においては女性へのアファーマティブ・アクションは正当化されないという反論だ。

 

本来であれば、ここからは実際の社会においてどれだけ男女格差の現実があるのかをデータを踏まえながら説明していくべきだが、それは本稿の射程を超えていくのでここで区切りをつける(思っていたより文章も長くなってしまった)。少なくともアファーマティブ・アクションの倫理的正当性の検証という目的は達成できたと思う。実社会における男女格差に実態について興味のある人は、自分で色々調べてほしい(勿論ちゃんとした研究機関や公的機関のデータを参照してほしい)。

 

箇条書きにはなってしまうが、最後にいくつか論点を挙げておく。

 

・男女格差は構造的不正義である。

 

・生来の男女の能力や志向性にそれほど差はなく、形式的平等が達成されているにも拘らず、男女格差が依然として残っているのは、社会的要因が原因である。本来、社会的な構造格差が無ければ、殆どの領域において本来男女比はおおよそ同じくらいになっているはずだからである。

 

アファーマティブ・アクションは男女格差是正のための一つ方法でしかなく、男女格差是正のためにどういう方法が効果的なのかは総合的に判断されなければならない。しかし歴史的な蓄積による男女格差の根深さを鑑みるに、アファーマティブ・アクションのようなドラスティックな介入が格差是正達成のためには必要に思える。

 

アファーマティブ・アクションの「負担」を現役世代の若手男性が不当に背負っているという主張がある。一般的には「男性」であるが故に履かされてきた下駄があり、或いは「男性」であるお陰で経験せずに済んだ不利益というものはあるだろう。そういった意味では、高所得者の納税額が高くなるように、アドバンテージを受けてきた(ないし不利益を被らなかった)「男性」が男女格差是という社会正義の為に一定のコストを負担するのは致し方ないと思われる。ただ世代間において、より長年男女格差による恩恵を受けてきた中高年以上の男性が若手より高い負担を背負うべきという議論はあるように思える。例えば立場ある中高年男性達の給与を一定カットし、「女性枠」の増設に活用するといった例だ。

 

*1:ロールズに従えば、基本的な自由や権利も社会的財として扱われる。本稿では分かりやすさを重視し、所得や教育、福祉といった実質的財を主に財として扱い、あえて自由や権利との区別をつけている

*2:有史以来の女性差別、男性中心社会の歴史を鑑みれば、過去の負債を返済し均衡を取り戻すために数千年以上という単位で女性だけを受け入れる選択肢もあるのかもしれない。しかし我々はそんな反対の極に振れた社会を求めている訳では無い